ぶれいどきゃっちゃー

社会人野球が好きな人が見たり聞いたり考えたりしたことを書いています。

生きています

長らく音信不通でしたが生きています。
ネットを見る暇もなく、W杯が行われていることすら知らず(コスタリカに負けたってニュースを見た辺りで初めて知ったぐらい)、世間に隔絶されながら仕事していました。
まだ仕事が終わらないので、今月はまたしばらく帰ってこないです。
いや今日はどうしても、いい記事があったので、それを紹介したくて。
number.bunshun.jp
この記事で触れられている11.16の試合も行ったんだけど、まだざっくり文章しか書けていません…
写真がいっぱい載っていますが、正直「デスマッチのことを、なるべくマイルドに伝えられる写真」を選んだなと思いました。11.16の試合は、もっと凄かった。仕事が終わったら、そのうちうpします。

彼らにとって、デスマッチとはあくまで前向きなものだ。「死ぬまでデスマッチをやる」という言葉は物騒かもしれないが、その意味するところは“デスマッチで生き続ける”ということ。闘うことで物語を紡いでいくという点では、通常のプロレスと変わりはない。

記事にもちょっと書かれているけど、デスマッチを残酷ショーという人もいるし、嫌悪感を示す人も少なくない。が、私から言わせてみれば、デスマッチを残酷ショーと言うなら、相手の首とかをいわして一生モノの怪我を与えかねない高角度で落とす純プロレスだって、ある意味残酷ショーよ。
好き嫌いがあるのは仕方ないことだし、デスマッチというジャンルは人を選ぶものとは理解しているけど、そんなデスマッチを単純に残酷と言うのは違う。血が流れるから、鋭利なもので体を傷つけるから残酷と決めつけるのは、ちょっと短絡的だなと思う。
とはいえ、橋本氏の文章はいつも良いなと思うんだけど、そんな良いライターの文章でも、文章だけで理解するのは難しいと思う。見ればすぐにわかるんだけどね。ああでも、私でも「えげつないですねこれは…」と思う時もまぁ、あるよ。


気のせいかもしれないけど、あの出来事を境に、デスマッチをすることで今現在の生を感じ、生き続けなければと自分を奮い立たせるような、そんな言葉が、私がよく見るデスマッチファイターから紡がれるようになった気がします。大日本とか見てないから、デスマッチファイターの全てがそうなのかは知らないけどね。
そんで、ああ私も生きなければ、と思い出したんです。このところ死にたかったわけでもないけど、一人で職場で戦って絶望していたので。
もうちょっと耐えれば楽になれるはずなので、頑張ろう。今日までで既に時間外30ぐらいついてるけど(白目)
次の彼らの試合を見るために、私も生き続ける。