ぶれいどきゃっちゃー

社会人野球が好きな人が見たり聞いたり考えたりしたことを書いています。

がれき残る町から新たな戦い 日本製紙石巻硬式野球部

産経新聞の記事より。いつか消えちゃいそうなので、以下全文掲載。
日本製紙石巻に来る人、そこから羽ばたく人、色々いるけど…どうであれ、皆が元気にプレーしてるところが見られたらいいですな。私も今年また機会があったら、東北まで観に行こう。プロも頑張って追いかけるよ。できれば…(爆)
簡単な感想でアレですが…思うところが色々あって、自分の稚拙な表現力ではうまく書けないのです。

【僕たちのプレーボール】日本製紙石巻硬式野球部



 夜半から降り出した雪は、翌11日の朝には石巻の町を真っ白に変えた。
 「体に痛い寒さだな」
 7日に神奈川から引っ越してきて初めての降雪。関東で生まれ育った身には、東北の冬の厳しい寒さは、骨身にまでこたえる。伊東亮大(22)は、194センチの長身をユニホームに包み、白い息を吐きながら、同期の新人選手4人とともに高台にある室内練習場に向かった。
 昨年3月11日に起きた東日本大震災。甚大な被害を受けた宮城県石巻市を本拠地とする日本製紙石巻硬式野球部も、新しい年を迎えた。
 チームは1月4日から始動した。昨秋のプロ野球ドラフト会議で指名された2人の選手がヤクルトスワローズに入団し、3人が勇退。代わって5人の新人選手の入団が決まり、年明けからチームに合流し、練習をスタートさせた。
 首都大学リーグに属する武蔵大学の野球部で活躍した伊東にとって、東北に住むのは初めての経験だ。
 「両親や大学のチームメートは、やっぱり震災のことを心配してくれて、『大丈夫なの?』って言ってくれましたが、僕はこの目で見て、大丈夫だよって答えました」
 いま、自主練習で、がれきの山が残る町を走っている。
 慶応大野球部出身の新人、伊場竜太(22)は、「昨秋、初めて石巻を訪れたとき、テレビで見ていたのよりずっとひどい状況で言葉にならなかった。でも、こういうなかでも野球ができることのすごさを実感した。この地でやりたいと決意が固まった」と語る。
 去る人がいれば、来る人もいる。チームは今夏の都市対抗に向かって、新たなスタートを切った。


 ■地元の夢背負いプロへ


 昨年10月27日。
 それは日本製紙石巻野球部の2人の選手にとって運命の日となった。
 プロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから、比屋根渉(ひやねわたる)(24)が3位で、太田裕哉(23)が4位で指名を受けたのだ。工場のクラブハウスで、ドラフトのテレビ中継を食い入るように見ていた2人は、自分の名前が呼ばれた瞬間、「よっしゃ!」と、ガッツポーズをとった。
 「本当に、周りの方々には感謝している」。太田は言葉をかみしめた。「自分ひとりの力じゃない。震災があっても、工場の人々も町の人々もすごくチームを応援してくれて…。支えてくれた人がいたからプロの道が開けた。そのことを実感した一年だった」
 地元・宮城県多賀城市出身の太田は子供のころからプロを目指していた。
 「小学生のとき、親父(おやじ)が、勉強と野球とどっちが好きかと聞いたので、『野球』と言うと、その場で勉強机を壊して野球の練習ができる部屋にしてくれた」
 高校時代、左腕のエースとして甲子園に出場。高校卒業後、日産自動車(神奈川県横須賀市)の野球部に所属したが、休部で日本製紙石巻に移籍した。
 「憧れていたプロ野球選手になれることは何よりうれしい。でも、石巻を離れることに申し訳なさはすごくあって…。町も人もチームも大好きだったから」
 一方、比屋根は「石巻では冬はいつもアンダーシャツを2枚か3枚、重ねていました」という。
 沖縄本島南部に位置する八重瀬町の出身。東京の城西大学に進学、首都大学リーグで首位打者をとるほど活躍しながら企業チームからなかなか声がかからず、最後に日本製紙石巻野球部に入部が決まった。
 日本製紙では1年目からセンターでトップバッターのレギュラーを獲得。しかし、「プロ野球なんてテレビで見るものと思っていた。夢の夢みたいなものだった」と、振り返る。
 指名直後に行われた記者会見の席上、2人は地元への感謝の言葉を口にした。
 「被災した方々の気持ちを背負って頑張っていきたい」
 いまだ全線開通していないJR仙石線石巻駅から歩いて5分ほど、繁華街を少し入ったところにしゃれたジャズバーがある。
 日本製紙の野球部員も利用する「クルーザー」だ。震災で外壁に大きな損傷を受け、店は6カ月間休業した。
 「ようやく再開できたときはうれしかったね」と、オーナーの角田栄吉(67)。そんな角田の一番の楽しみは野球部の応援。10年ほど前から公式試合には必ず駆けつける。店で、グラウンドで、角田は選手たちを見守り続けてきた。
 「被災した石巻からプロ野球選手が誕生したんだ。きっと、地元の希望になってくれると思う」
 角田は昔から日本製紙石巻工場の煙突から出る白い煙で、天気や風の向き、気温などを知ったという。
 津波の被害で一時は壊滅状態だった工場だが、昨年9月から一部、操業が再開。煙突からまた白い煙がはき出されるようになった。今年の夏には全面的に操業が再開される予定だ。
 「野球部も今年は必ず都市対抗に出てもらいたい。それが僕らの希望につながる」。角田の温かな笑顔が広がった。