ぶれいどきゃっちゃー

社会人野球が好きな人が見たり聞いたり考えたりしたことを書いています。

だんだん考えを他人に読ませる言語としてまとめるのがめんどくさくなってしまった文章

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読んだ率直な感想は「言葉尻に対する好き嫌い」だなと。
私は常日頃「~してあげる」という言葉がすごく嫌いです。上から見られている感じがするので。
おそらく意識的に相手を見下して「~してあげる」という表現を使う人は、少数派だと思います。身の回りの人間の大体がそうなのですが、発言があった時の状況にもよるけど、相手に協力する・助太刀するという意味合いで「~してあげる」と言っているのだろうと解釈しています、不愉快な気分になるけど。
だって、協力するとかそういう話をするなら「~してあげる」という言い回しを使う必要性って全くないんです。「私もやります」みたいな言い回しで十分なはずです。
……という感じで、何故この言葉に違和感があるのかを彼なりに追求し言語化した結果が上記の記事なのかなと思いました。
どの意見が良いとかダメとかいうのではなく、彼のようなそういう考え方もアリなのだろう、と思う。


ただ、この記事を読んでいて「アスリートのうち、自分の言葉でお話ができている人はどのぐらいいるのだろう」と思いました。誰かの発言や表現をそっくりそのまま流用するのではなくてね。
安易に「頑張ります」とか「感動を与えたい」とか言う人は「自分の言葉で考えるのを放棄している」か「下手なことを喋ると無駄に追及されるから『無難そうな言葉』でかわそうとしている」か…じゃないのかなぁと思ったり。下手に余計なことや変わったことを喋ると、彼のように語録扱いされていじり倒されるし叩かれるからね。

『感動を与える』という表現は、あたかもアスリートがベストなパフォーマンスを発揮すれば、誰もが喜ぶと一方的に『感動』を押しつけている印象を受けます。スポーツは無批判に『良いもの』とされ、皆が感動するだろうと思い込むことの傲慢さみたいなものを、現役時代から感じていました

町田氏の考える「感動」とは上記のものだと分かった。
では、他のアスリートが考える「感動」とは何だろうな。
私は普段スポーツを見て感動している。それは単純に、自分にはとても不可能なことを成したことに対する尊敬の念を抱く感動もあれば、「なんて不運なんだ」「なんて可哀想なんだ」と悲哀の意味で感動することもある。
町田氏の感動の押しつけを懸念する考えはわかるけど、私は「感動を与える」と言っているアスリートが、どういう感動を意図してパフォーマンスを見せているのか全く理解できないんだ。
例えば美術だったら「自然の美しさを描こうとしているのね、わかるわ」とかなるけど、アスリートが表現しようとしている感動が何なのか、よくわかんないんだよね。だから個人的に勝手に感動ポイントを見つけて勝手に感動している。
感動を与える/与えられる以前に、アスリートが考えている大衆とのコミュニケーションって実は取れてないのかもよ?と。
っていうか、その気がないんだったら「感動を与える」などという自分自身すら意味がよくわからない漠然とした言葉を使うなよってだけな気もするな。意味も分からず発言している言葉ほどダサいものはない。
私も欠乏しているので人のことは言えないけど、やっぱ語彙力がないとな。
あと個人的に「新しい景色」って言葉にも「感動を与える」に対するのと同じような感想を持っているよ。