ぶれいどきゃっちゃー

社会人野球が好きな人が見たり聞いたり考えたりしたことを書いています。

あれからもう13年だったのか

www.yomiuri.co.jp
本当に、わざわざネットに、本人に見える場所にこんなこと書き込む人いるの?圧倒的少数派だと思うけど……信じられん。いや書き込みをすること自体も勿論だけど、まずそういう目で彰俊さんを見ることが信じられない。
この記事を見るまで、そういう人がいるってこと自体知らなかったけど、それだけこれは事故で、悔やんでも悔やみきれない、でも仕方がないとしか言いようがない出来事だと思っていました。


彰俊さんがそんな気持ちでリングに立ってるはずない、辛い思いを抱えながら戦ってるんだって、決してわざとやったわけじゃないんだって、当時のNOAHの試合を見たことあるなら絶対にわかることなのに。ベタな表現になってしまうけど、こういうことを平気で書き込む人は本当に、NOAHファンでもプロレスファンでも何でもないと感じる。
当時、三沢さんがリングの上で亡くなったと聞いた時は私とて本当にショックだった。でもあいつのせいだなんて一瞬たりとも思ったことはない。そこに悪意なんて当然ないし、それだけプロレスの技術に優れている選手(だと思っている)し、むしろ当時は死神ギミックをやってたから(ギミックといってもキャラクターをバリバリ作って演じてるとかそういうのじゃない、ちょっと自称するぐらいの軽い感じ。ヒールっぽかったけど何となくコミカルめだった記憶がある)、こんなことになってしまってこの先大丈夫なのか、プロレスを続ける精神でいられるのかと、そっちが心配になってしまった。
それに、色んな人が言ってると思うけど、晩年の三沢さんは何もかもコンディションが悪くて、動けてないし、顔色も悪いし、素人でも画面越しにめちゃくちゃ疲れてるか体調が悪いんだなってわかるぐらいだった。「たまたま彰俊さんがその引き金を引いてしまった」って表現を多く見かけたけど、本当にそれだとおもう。2000年代ら辺のNOAHは落とす時の角度や一撃がかなりキツそうな技が多かったし、リアルタイムでは見ていないけど四天王プロレスも大分激しかったらしいから、いずれそうなってしまうってのはあったと思います。


最近はNOAHの試合には行けてないけど、彰俊さんは私が観に行った試合では全然元気そうで、まだまだやりそうな感じだった。第1試合や第2試合辺りで会場を温めることが多くて、もうちょっと後半の試合に出てもいいのになぁと思うこともあるけど、この場合メインかどうかとかベルトがかかっているかどうかとか、その手前の話なのかもしれないな。
しかし…

「皆の気持ちを受け止める、なんて偉そうに言ったけど、実際には自分の容量をはるかに超えていて。でも、筋肉もそうですけど、衝撃で破壊された後に休息を取ると、以前より大きくなりますよね」。心も、何回も壊れて修復したら大きくなると、自分に言い聞かせている。

彰俊さんに限った話じゃなく、プロレスラーは体もメンタルも強いな、と思わされることが多いな。色々言われることが多い職業だと思うけど、そのたびに「じゃあプロレスラーと同じ事やってみてよ」と思ってしまうよね。
私は自分にできないことができる人は、どういうジャンルであれ「すごいなぁ」と思うのです。自分はそういう体力もなければ気力もない。挑む勇気もなければ努力の仕方もわからない。だがらそれに挑んで、気丈な人はすごいと思うんです。うーん、語彙力がなさ過ぎて適切な表現が上手く出てこないな。


それにしてもさ、三沢さんはそんなボロボロな状態だったのに、お客さんが待ってるからってリングに上がり続けたらしいんですよ。お客さんというのは、どちらかというと一般のファンというより、会社のためのお金を出してくれる人のことだと思うんですが。
好きな選手を沢山見たい気持ちはわかるよ。でもトップスターだった頃の面影を失うどころか、その選手の魅力すら完全消滅するほどの姿になっても尚、リングに上がれと思う気持ちがどうしてもわからない。自分の好きな選手がいかにも体調悪そうだったら、1年でも2年でもいいから休んでくれ、元気な姿が見たいから、それまで待つから、と思うけどな、私は。
昔も同じようなことを書いた気がするけど、ボロボロになるまでやって引退するのが美しいか、もっとできるのにと思わせるような余力を残して引退するのが美しいか―――私は全盛期のかっこいいイメージを壊したくないという思いが強いので、俄然後者です。
そしてこういう出来事があったんだということを鑑みても、やっぱり後者だなと思う。選手はそれ以前に人間であって、リングやグラウンドの中で生きている姿が―――その人の大部分を占めてはいるかもしれないけど―――だからと言って全てではないと思うので。